食としつらい、ときどき茶の湯

ふつうの暮らしをちょっとよく。背伸びしないで今日からできる、美味しくて心地よい暮らしのヒントを集めています。

家をつくろうとする方・つくられた方の傍で、 家 人 暮らしを永年見守り続けた 元・建築設計事務所 広報担当から
日々の暮らしを見つめるヒントをお届け。家の捉え方、 暮らしの向き合い方を見つけるきっかけになれば嬉しいです。

暮らしのなかの日々の花「センニチコウ」

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センニチコウ。夏から秋にかけて、長い間咲き続けることから「千日香」と名付けられたそう。センニチソウともいうらしい。

 

花のある暮らし

このお花、設計事務所時代から慣れ親しんだものの一つ。完成したばかりの殺風景な家に人さまをお迎えしたいとき、所長の奥さんが庭の草花を小さな花器に挿し、「しつらい用に」と持たせてくれた。センニチコウはこの時期よく登場し、後々 事務所でも長く楽しめたので 愛着もひとしお。こうして小さな花器におさまると、かわいいのに楚々として見えるところがまた魅力的。

正直、昔から特別 花好きだったわけではない。むしろ、女性にしては関心の薄い方。ところが、茶席のしつらいや 設計事務所ならではの美意識に 日々触れるうち、次第に 花のある空間とない空間での モノゴトの印象や伝わり方の違い、しつらい方による気分の違いに気づくようになっていった。

今は、自宅の玄関や廊下の一角、洗面台やトイレの窓台など、ちょっと寂しいところ、行き止まり感・行き詰まり感のあるところに花器を置いている。生けた花が終わりに近づくと 実家の庭で草花を頂戴して花器に生け、家じゅうウロウロしながらベストポジションを探す。場所が決まれば「じゃ、ここね」と声をかけ、その一帯の空間をアゲてくれるよう暗示をかける。こんなに小さなお花や花器でも、さっきまで無機質でグレーがかってみえた空間が 急に息を吹き返したように色味がかって見えるから不思議。

 

生きているもの・色のあるもの

先日、ある企業におじゃました時のこと。初めてだから ついキョロキョロ見てしまうのだけれど、なんとも、なんともなんとも殺風景で驚いた。作業するだけの場所と割り切ってのことかもしれないけれど、それにしたって色がない。生きてるものがない。ここに慣れたら 感性はフタを閉じてしまうのでは、と案内してくれた人を案じる気持ちすら湧いた。

この片隅に鉢を置いたら、ここに台を置いて花を置いたら…と、妄想で”生きてるもの”をそこに置く。絵はここに、飾り物はここに。妄想が止まらない。今度訪ねるときに勇気を出して言ってみようか?

「ここに お花を置いてみてはどうでしょう」

いやー、言えない。余計なお世話が過ぎるもの。でも知ってほしいなぁ、生きているもの・色のあるものを置くだけで 息を吹き返したように空間は変わるんです。それにいちばん影響を受けるのはニンゲンなんです。

 

 

朝が始まる前に 〜バラガンの朝食室に思う〜

朝が始まる前

近ごろ ずいぶん日の出が遅くなった。

夏至前後 2-3ヶ月の日の出は4時台。薄暗いうちから飛び起きて 日の出15分前のピンクの空を眺めて帰ってきても、あたりはまだ静まりかえっている。世の中が動き出すまでのひと時、本を読んだり書きものをしたり。自分と向き合いながら過ごす贅沢な時間があった。ところが近頃 日の出は5時半を過ぎ、行き交う人も増えてきた。早く起きなくても えも言われぬ空を拝めるのは嬉しいけれど、それは同時に 夜明けが人の活動時間に近づくわけで。自分だけが持っていた特権を取られたような なんとも複雑な気持ち。まだ「朝」は始まって欲しくないのだ。

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バラガンの朝

何年も前、メキシコの建築家 ルイス・バラガン邸を見学したとき、案内人が言っていたのを思い出す。

「バラガンは、自分の朝食室を西につくった。そこでひとり静かに朝食をとりながら、これから始まる一日に思いを馳せた。」

敬虔なクリスチャンだった彼は、弱い光の差し込む西の窓から緑を眺め、まるで教会のような鎮まりを持つ 小さな朝食室で食事をとったという。朝は東から始まる。すでに"朝"が始まり 喧騒が渦巻く東から離れ、バラガンは未だ静の時間がながれる西に朝食室をつくったのだ。
ひとり静かな朝を求めるその気持ち、よく分かる。「朝」が始まる前のひと時は、なぜか 自分の’声’がよく聞こえる。西に自分の朝食室を持つことはできないけれど、朝が始まる前の 特別なひとときは誰にも奪われたくないものだ。

脱・モノの多い暮らし

ずいぶん前から、所有するモノの量を考えるようになった。服も ストック品も 極力買い集めないようにしている。改めて モノの量のことを考えていたら、昔書いた記事をふと思い出した。2016 年に書いた今はなきブログ記事、思い出しついでに ここに移し書いておこう。

 

家が持つ 荷物の量を考える 〜2冊の本の視点から〜 

『フランス人は10着しか服を持たない』という本が売れています。パリにホームステイ経験のあるアメリカ人、ジェニファー・L・スコット氏による著書です。

「10着なんて絶対嘘だ!」という声が聞こえてきそうですが、これは、季節ごとに着回すワードローブ数なのだそう。それでもやはり、「全く想像できない」と感じる方が大半かもしれません。

荷物に関する書籍でもう1冊。
世界の家と家財道具と家族を撮った面白い本があります。およそ20年前に出版された、写真家のピーター・メンツェル氏著、『地球家族 ー 世界30か国のふつうの暮らし』

各国のお宅の写真を見比べると、日本の家の家財の多さに驚いたり、「ウチはこんなもんじゃない、もっとあるよ」という方もいらっしゃるかもしれません。

一般に、私たち日本人は服に限らずとにかく荷物が多い。「勿体ない」という感覚や風習がある上に、「いつか役に立つかも…」という淡い期待の入り混じった「判断保留」が多いのも事実。”何十年モノの開かずのハコ”をいくつも押入れに入れたままの方も多いのではないでしょうか。

家族構成や年代によって適した大きさ・環境の家に住み替える文化の西欧と違い、日本人は ひとつの土地で土着して生涯を送ることが多い。家を幾世代も住み継ぐこともまた文化です。

となれば、判断しない限りは「保留」は増える一方で、「中身はよく分からないが 何か大事なモノ」が何十年もそのまま家にあることになります。新しく家をつくろうというときも、女性の方の多くが「先ず収納」とおっしゃいます。もちろん十分あるに越したことはないのですが、収納をつくるのだってリビングや寝室同様、”スペース”と”お金”がかかります。

「よくわからない何か大事なモノ」 「ほぼ出番のないモノ」を置くために、何十万、何百万もお金を払い、ときには家族の“居場所”を圧迫しているのです。“ぜひそばに置いておきたい大切なもの”を見極めて、それらを厳選できる感覚をもう少し持てたなら、モノを持つ豊かさとは違う豊かさに出会えるかもしれません。

そして、家はもう少し小さくていいかもしれません。機会があったら この2冊の本を手にとってみてください。

『フランス人は10着しか服を持たない ~パリで学んだ“暮らしの質"を高める秘訣~
著者:ジェニファー・L・スコット / 翻訳:神崎朗子 / 出版:大和書房

『地球家族 世界30か国のふつうのくらし』
著者:ピーター・メンツェル、マテリアルワールドプロジェクト / 翻訳:近藤真理、杉山良男 / 出版:TOTO出版



感覚のリセット

茶道を習い始めて十数年。仕事帰りに 意識朦朧 ヘロヘロ状態で先生のお宅にたどり着き、「今週もどうにか ここへ来た」という妙な達成感をもってお稽古に望む日々。身支度を整え しっかりお茶と向き合う用意をしていくべきところ、ただただ半身でお稽古場に顔を出す状態。失礼な話だ。それでも、どうしてお稽古に行くのか。
それは、心のコンディションが見えるから。ズレたものを正すことができるから。

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茶道では、所作一つひとつに集中し、丁寧でゆったりとしたリズムが求められる。効率やスピード、成果を求める 自分の日常世界とはまるで真逆。普段なら通り過ぎてしまうような小さな事象、モノ・コトに意識を向け、心を傍に寄せていく。

不思議なことに、お点前には私の精神状態がよく表れる。仕事で難しい案件に携わっている時、大量の業務を抱えている時、大きなイベントを前にしている時などは、決まって先生に「今日はなんだかひどいわね」と言われてしまう。当たり前のことを忘れたり間違えたり、一つひとつの所作にせかせかしたり。自分では集中しているつもりでも、いつも見ている先生からするとわかりやすく「ひどい」のだ。
先生の「ひどい」の一言は、私の仕事アタマの強制終了ボタンになる。はっと気づかされるようで、そこからようやく所作一つひとつに意識が向く。ゆっくり丁寧にと意識するうち、頭の中の大半を占めていた不安感やストレスは おのずと姿を消していく。

ちいさなことに目を向ける余裕なく、広く浅くモノを見て効率と成果を求める日常。このままでは大事なことを見失いそう、と気付きながらもコントロールできない時、茶道にただただ身を委ねることで 私はこの世界に戻ってこれているようだ。

ときめき!!『ラブおばさんの子供料理教室』

今でも大事に持っている、子どもの頃に買ってもらったある本のお話。

おもちゃ屋さんには近寄らないけれど、本屋さんにはよく連れて行ってくれた母。「一冊だけね」という声を合図に好きな本が並ぶエリアに急行するのが常。ただし その『一冊』にはマンガは含まれず、母自ら「これ、いいじゃない」と漢字ドリルや計算ドリルを推してくるという…笑。子ども心に母の狙いはわかっているので、その意図をかいくぐり なおかつ 自分が欲しい絶妙な本を探しては、「これお願い」と差し出し 厳しい購入判定検閲を受けるのがお決まりだった。

大抵は伝記モノや図鑑系になるのだけれど(物語は数回読むと読まなくなってしまうから損した気分になる)、ある時、本棚の前で脳天をくらうほどトキめく本に出会った。それが、『ラブおばさんの子供料理教室』(鎌倉書房)。

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子ども向けの料理本で、中学生のお姉さんと小学生の女の子たちが”ラブおばさん”の手ほどきで色々な料理に挑戦し レシピを紹介するもの。かわいい挿絵が散りばめられ、登場する女の子たちはキュートな服を着て素敵な器やお鍋を使いながら「グラッセ」だとか「海の幸のホイル焼き」だとか、聞いたことのないお料理を作っている。田舎の小さな少女には、まるで外国に行ったような衝撃。ページをめくるたび、興奮が止まらなかった。

母の検閲をあっさり通過し 私のもとにやってきた『ラブおばさんの子供料理教室』は、以来 私のバイブルに。眺めては世界に浸り、手順をイメトレし、端から試す毎日。その後、本屋さんで買ってもらうのは決まって「お菓子百貨」や「料理の基礎」などのレシピ本に。いつの間にか、料理が趣味になっていった。

相変わらず どうにか勉強させようとする母だったが、「これを作ってみたい」といえばすぐに材料を揃えてくれ、いつも黙って協力してくれた。今考えれば、材料、道具、と相当な出費だったと思うけれど、そのおかげで「料理は楽しい」というイメージが身体中に染み込だ大人に成長した。

ある程度成長してから料理に挑戦するのもいいけれど、子どもの頃に感じた「楽しい」の感覚がベースにあるのって、やっぱりとても幸せなことだと思う。

『ラブおばさんの子供料理教室』と母に感謝。

 

 

ほろ苦コーヒー まろやかコーヒー

むかしから、毎朝必ずコーヒーを淹れる。漂う香りがなんともいえない。ちょっとでも時間があれば豆からガリガリ。挽き立ては、ミル済コーヒーの数倍香りが良くて幸せ度が違う。ところが最近、そんな香りを楽しむ朝のルーティーンに衝撃が走った。

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『コーヒーは100度のお湯で淹れる』

少し濃いめで苦みの強い ”大人のコーヒー”を淹れる達人から、「とにかく沸かしたてのお湯じゃなきゃ。それを、ゆっくりじっくり落とすのよ」と習った。私はミルクなしではいただけないが、達人の淹れるコーヒーはツウの方から絶賛されている。

達人から繰り返し美味しいコーヒーの淹れ方を習い、しっかり沸いた熱々のお湯で、ゆっくりじっくりモコっとする泡をつくりながら淹れることができるようになった。それでも自分ではミルクなしでは飲めない。結局ツウにはなれないなぁと思いながら、香りだけは楽しんでいた。

 

『コーヒーは90度のお湯で淹れる』

少し前 どこからともなく「お湯は90度」という情報を耳にした。どういうこと?「絶対沸かしたて」と習ったのに。半信半疑ながら、試しに沸騰してから少し置いたお湯で同じようにゆっくり・じっくり落としてみた。

衝撃。まるで味が違う。まろやかで、舌に残る苦味(雑味かな?)がない。同じ豆とは思えない。ミルクなしでも苦さが気になるなんてことはない。

なんだ、そうだったのか。コーヒーは大好きだけど、決してツウではない私。ツウでないと自覚するゆえ、私は濃いめで苦みの強い”大人のコーヒー”の美味しさがわからずミルクを入れてしまうのだ、とばかり思っていた。でもそうじゃないんだ。淹れ方の違いで好みが分かれただけなんだ。

 

評判でなく、自分は自分の舌で答えを出す

ツウでない、よく知らない。そんな風に自分を低く評価しすぎると、自分の舌が素直に感じた「ん?」という感覚を打ち消してしまう。自分が美味しいと思うものは、自分の舌で決めていいのだ。何を遠慮していたんだろう。

100度が正しいか 90度が正しいか、そういう話じゃない。熱々のお湯で淹れるほろ苦コーヒーもあるかもしれないが、90度のお湯で淹れるなめらかコーヒーもある。自分は明らかに後者が好きだ。初めからそう思えればよかった。無知だから…という謙虚さ(?)も、度を超えるとさらなる無知を生む。

こういうことって、なんだか色々なことにつながるな、と思った。

とりあえず、最近うちのコーヒーはミルクなしでもガツンと来ない、でも香り高くてまろやかな美味しいコーヒーだ。

 

茶碗の中のご飯の美学

母は食事の盛り付けに少しうるさい。

「美味しそうに盛る」

これが口癖で、子どもでも ごはんの盛り方がきれいじゃないと容赦なくやり直し指令をだしてくる。

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「美味しそうに盛りなさい」

父のごはんは やや大ぶりのお茶碗にたっぷり盛り。一膳めは、お茶碗の縁の高さを少し超え ふんわり山型に盛られる。いくらたくさん食べるといっても、美味しそうに見える量を超えて盛るのは絶対NG。お茶碗の大きさに適した盛りで、ふんわり山型でないと美味しそうに見えない、と母は言う。

洗いたての器によそった一膳めのごはんならやり直しが効くけれど、おかわりのときは お釜にごはんを戻してやり直すわけにもいかない。「たくさんは要らないよ」という父のセリフを聞きながら、少なめごはんを慎重に ふんわり盛る。失敗できない。多すぎると 父が「多い」と不満を漏らす。お茶碗1/3ぐらいの量をふんわり盛って、「このぐらい?」と父に聞き、「もう少し」と言われれば さらに二口分ぐらいをふんわり追加。「このぐらい?」とまた父に聞く。そのやりとりとご飯茶碗を母がじっと見ているものだから、ごはんのおかわりを頼まれるとちいさなプレッシャーを感じながら慎重に慎重に盛っていた。

 

ふんわり、山盛り。

だから、大人になっても定食屋さんに行くとご飯の盛り付けはとても気になる。お茶碗のサイズに合う、ふんわりとした山型のご飯だと「あぁいい感じ」と思うし、しゃもじからパタリと移しただけのような、てっぺんが平らの盛りだと心底がっかりする。「気持ちが入ってないんだな」と食べる前からテンションが下がり、定食の味など感じなくなってしまう。お茶碗サイズを無視した山盛りやぎゅうぎゅう押し込んだような盛りは、『沢山盛ったんだから それでいいでしょ』みたいな投げやりな気持ちを感じて悲しくなる。美味しそうに盛れば 美味しそうに見えて、さぁ召し上がれっていうつくり手の気持ちもお茶碗によそわれるのに。

ご飯茶碗の中に盛られる白いご飯は、ふんわり山盛り。

「美味しそうにみえる盛り」ってあるんです。