食としつらい、ときどき茶の湯

ふつうの暮らしをちょっとよく。背伸びしないで今日からできる、美味しくて心地よい暮らしのヒントを集めています。

家をつくろうとする方・つくられた方の傍で、 家 人 暮らしを永年見守り続けた 元・建築設計事務所 広報担当から
日々の暮らしを見つめるヒントをお届け。家の捉え方、 暮らしの向き合い方を見つけるきっかけになれば嬉しいです。

まめまめしくハタラク。父の畑と落花生。

今年も 父の自家製落花生の美味しい季節がやってきた。実際、父のつくる落花生は家庭菜園の域をはるかに超える。ぷっくりしていて 硬すぎず、乾きすぎず。よく見る国産品より大ぶりで、中国産よりジューシーだ。カリッと噛んだ時の食感と、顔のまわりに広がる香ばしさがたまらない。

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ミッフィーノート

父は、昔から自分の好きなことは とことん探求する性質。好きなことはやるけど 好きじゃないことはやらない主義、ともいう。呆れるほどメリハリがあり、農家生まれ農家育ちながら 畑しごとは ほぼノータッチ。仕事の延長線にあるものごとと ゴルフにしか興味がなかったのだが、ひょんなことから近所の畑を借りることになり 新たな探求の日々が始まった。
ある日、父が「要らないノートはあるか」と聞いてきた。たまたま手元にあったのは黄色いハードカバーのリングノート。シンプルだが すべてのページにミッフィーがいる。「それでいいや」と受け取ると、ペラペラページをめくりながら部屋に戻っていった。

半年以上が経った頃、作業台に置かれたミッフィーノートを見かけた。「あ。」と思って開いてみると、中には太い鉛筆線で 四角い枠、ところどころ囲みがあったり薄く塗りつぶされたりして、引き出し線とともに「ホウレンソウ」「春菊」などと描かれている。畑の配置図だ。他にも 間引きがどうの、芽がどうの、と メモがあり、とにかく緻密だ。こういう用途だったのか という驚き以上に父のマメさに驚いた。
よく言えばおおらか、悪く言えばガサツ というのが家族がみる父のイメージだから、仕事だとか趣味だとか、家族の知らない世界ではこんな一面があるのか、と新鮮だった。

ページの片隅にいるミッフィーと無骨な文字のコラボが妙で笑ってしまったが、そういうことなら もっと違うノートをあげればよかったかな、とも思った。

 

とことん

父の畑しごとは次第に熱を帯びていった。買い集めた本には付箋が貼られ、 空の靴箱には種の袋が整然と並び、雨樋の先には巨大な桶が据えられた。浴室の窓の外には残り湯を汲み出すポンプと特殊なホースが設置され、休みの日には 早朝からガガガガガ…と歩道を豆トラが進む音する。できる野菜は 驚くほどいい出来で、売りもの同等かそれ以上。ここが 何十軒と家が立ち並ぶ団地ということを忘れてしまう。
父は犬の散歩ついでに顔を合わせたご近所さんに採れた野菜をおすそ分けをするものだから、私が犬の散歩をしていると 知らない人から「キャベツありがとう」「大根 立派だったねぇ」と声をかけられる。同じ犬を連れ 手ぶらでいるのが なんだか申し訳なくなる。「お父さん もう里芋掘ってる?」と手入れや収穫のタイミングを問われることもある。知らないうちに "ご近所さん"は増え、団地の"菜園仲間"には 頼れる情報源になっている。

そんな父が 特に注力しているのが、マメ類。枝豆と落花生。他の野菜とは明らかに熱が違う。全く料理のできない父だが、豆だけは 食卓に上がる最後のところまで自分でやる。いちばんの楽しみ、仕事終わりのイッパイを美味しくするため 納得いく加減で仕上げたいのだ。

 

落花生

落花生は食べられるまでに手間がかかる。収穫してすぐ食べられるわけではない。
サヤをぶら下げた根を掘り出し 枝ごと干す。乾いたら 一つひとつサヤを取る。洗う。また干して乾かす。最後にロースト。国産落花生が高いのも頷ける。

一度 サヤを取る作業を手伝ったことがあったが、4時間没頭しても 収穫カゴ1.5個分にしかならなかった。生育中も 土の中でネズミやモグラが狙っているし、少しでも土からサヤが見えようものならカラスに掘り起こされ、干している間も狙われる。洗って庭先で干している間は愛犬が狙う。(これは意味が違うけど。)ローストだって、設備の乏しい家庭には難儀だ。たくさん作れば作るほど、この先の工程の大変さに心が折れそうになる。それでも父は、夢中になって 黙々と作業を進める。

最後の工程、ローストは 父もだいぶ苦戦した。何せ、基本的に料理はできない。
確か、当初はフライパンで炒っていた。オーブン皿に並べて焼いていたこともあるし、銀杏のように 紙袋に入れ レンジでチンしていた時期もある。挙句の果てには お菓子屋さんに持ち込み ローストを依頼した時期もあった。お相伴に預かる者からすれば、どの方法でも十分美味しいのだけれど、会心の豆を作った自負のある父には納得いくローストで食べたい。唯一自身で使えるオーブンレンジのあらゆる機能を端から試し、容器を変え、時間を変え、手順を変え、あの手この手で夜な夜な試作を繰り返す。深夜に 煙がもくもくするのは日常茶飯事で、香ばしい落花生の匂いが家じゅう充満するのは 秋冬の日常光景だ。

何年、何百日、何百回試したかしれないが、昨年父はとうとう納得のローストにたどり着いた。「うめえだろ」と父。ふだん素直でない私もさすがに「これは美味しいね」と即答してしまう。仕上げのロースト加減にこだわる理由がよくわかる。

父流ローストの基本のやり方は習ったが、その時々に微調整が必要で 父でないとうまくできない。年月をかけ執念で編み出した父流ロースト、よっぽど思い入れがないと そう易々と成功はしないのだ。
それにしても、父のマメさと執念には感服する。私にも少しはその血が流れているのだろうか。