「お茶事」は、誰もがよく知る"抹茶とお菓子"だけでなく、食事を伴うおもてなし。
本来、茶道はこの一連のおもてなしを通じて客人と亭主が心通うひと時を楽しむのもので、もてなす側・もてなされる側も、五感をフルにつかって全神経をこのひと時に傾ける。
先生のお宅で催されるお茶事では、客人として楽しませていただいていたのが、いつからか亭主側を担当させていただくようになった。すると、見える景色は一変。何もかも、本当に何もかもが違って見え、はじめて目の前が開けるような感覚になった。
亭主は、客人を迎えるためにありとあらゆる準備を行う。掃除や庭仕事はもちろん、お茶や料理、しつらいなど、客人の目にするもの・触れるもの・聞こえるもの・嗅ぐもの・味わうもの一つひとつに意識を配って準備する。
路地を掃き清て打ち水をし、つゆに照らされた草花と踏み石の清々しい世界を作り出す。茶室のお床に禅語の軸をかけ、客人を迎える亭主の想いをそこに載せる。活けた花の葉につゆを落とし、たった今 朝露の残る草花を摘んだように表現する。茶碗や茶入れなど、つかう道具は季節や機会を推し量って吟選し、料理やお菓子も季節や産地、つくり手、意味合いに深く配慮したものを供する。白飯は、「たった今炊けたばかり、このあとお持ちしますからね」と蒸らす前のやわらかい白飯と、蒸らして食べ頃になった白飯とを二段階でお出しするのだから驚く。書き出したらキリがないけれど、その「瞬間」に目をやりながら、意味や背景に気持ちを載せた、細やかな、実に細やかな 心配りがそこにはある。
今まで 見ているようで見ていなかった、幾重にも重なった亭主の心尽し。目にするもの・触れるもの・聞こえるもの・嗅ぐもの・味わうもの。客人の「五感」と「知」が結びつき、心動く一瞬のために心を配る。それはもう、茶道の決まりごとを超越した「気づき」の世界。
ただし、亭主の心尽しを味わえるかどうかは客人次第。ただその場に身を置いているだけでは その向こう側にある想いや心遣いに気づくことができない。それを楽しむには、五感を研ぎ澄ませること。そして知ること。分からなければ、聞くこと。
五感と知を揺さぶられた客人の感動は、何百倍にも膨れ上がるはず。今このとき、亭主と客人との間にある共通世界を感じると、茶道でいう「一期一会」の本当の意味するところを味わえるのだと思う。
おもてなしをする側の「亭主」。客人とは反対側の世界から「おもてなし」をみると、気づけるひとでありたいと心の底から強く思う。学ばないと。研ぎ済まさないと。道のりは長い。