食としつらい、ときどき茶の湯

ふつうの暮らしをちょっとよく。背伸びしないで今日からできる、美味しくて心地よい暮らしのヒントを集めています。

家をつくろうとする方・つくられた方の傍で、 家 人 暮らしを永年見守り続けた 元・建築設計事務所 広報担当から
日々の暮らしを見つめるヒントをお届け。家の捉え方、 暮らしの向き合い方を見つけるきっかけになれば嬉しいです。

ことばと器

今日、ちょっと嬉しいことがあった。

何気ない仕事のメールのやり取りでお返事をくださった方が、「ことば選びが美しいからメールをいただくと嬉しくなる」と書き添えてくださったのだ。ちょっと書き添えてあっただけだけど、大いなるお世辞や気遣いかもしれないけれど、でもやっぱり、心が浮き上がるほど嬉しかった。「届いた!」と思った。

手紙やメール、端的に要件が伝わるのがまず第一ではあるけれど、相手の方にそれを”何色”と感じ取ってほしいかなんてことを日頃考えているものだから、それが相手がキャッチしてくれたような気がしたのだ。

 

同じ中身でも、そこにどんな印象をまとわせるか。
それって、料理の盛り付けに似ている気がする。

「味が美味しい」ことはもちろん重要だけれど、それをどんな印象・どんな気持ちでいただくかは味の行き先を決めるようなところがある。だから、盛り付けは大事なのだ。器も、しつらいも、大事なのだ。

 

そう考えると、繋がっているなぁ。
ことばと、器。ことばとしつらい。インテリア。どうやら私はこの辺りにとても強い関心があるようだ。

けんちん汁と、漆の器・漆の塗り箸

 

 

70歳のお雛さま

3月の終わり、母の古希の誕生日。
家族で祝おうと実家に行くと、ピアノの上に古いお雛さまとお内裏さまが飾られていた。ここ信州では、お節句を月遅れで祝う風習があり、ひな祭りは3月3日ではなく4月3日。“ひな祭り本番”を間近に控え、せっかくだからと小屋裏の奥に仕舞われていたのを出したのだという。

それにしても、あまり見慣れない ふるいお雛さま。子どもの頃に飾っていた私や妹のお雛さまとは、年季も醸し出す雰囲気も違う。遠いむかしに箱の中にしまってあるのを幾度か見たことがあるような、ないような。

 

聞けば、母のお雛さまと言う。つまり、70年前のお雛さま。「節目だし、お母さんが生まれた時に買ってもらったものだから飾ってみようと思って」と母。「叔母さん(母の姉)のは宮付きだったけど、お母さんは次女だから屏風だけで簡易」とおどけて話すが、内心とても驚いた。昭和20年代。後半とはいえまだまだモノが少なかったであろうこの時代、叔母とは別に自分のお雛さまを持っていたとは。愛らしい表情をしたその古いお雛さまを眺めていると祖父母の姿が浮かび、思わず胸が熱くなる。

 

母方の祖父母は、幼少の私からみても勤勉で慎ましく、とにかく働き者だった。朝早くから黙々と畑仕事や蚕の世話をしていて、無駄話をしたり騒いだりする姿を見たことがない。特に祖父は言葉少なで、常に自分を律しているのが子どもの目にもわかるほど。そんな祖父母が、手に入れるのが容易でなかったであろうお雛さまを娘の誕生のたびに買い求めたのだと思うと、こみ上げるものがある。このお雛さまにどれだけの思いが詰まっているのだろう。古希を迎えた母も70年前は赤ちゃんで、祖父母の愛情を一身に受けて育ってきたんだと改めて気づく。

 

お雛さまを眺めていると、日頃なんとなくものを買っては浪費しがちな自分を強く戒めたい気持ちになる。モノの買い方、向き合い方。そういうところにも、人生観が表れるんじゃないかと思えてくる。

 

昨年の秋、祖母はたくさんの思い出を残して祖父のもとへと旅立った。機会があったら叔母のお雛さまも見てみたい。おじいちゃんとおばあちゃんが娘のために買った最初のお雛さま。県外に暮らしていてなかなか会うことのできない叔母、次の桃のお節句には「お雛さま見せて!」と訪ねてみようかな。

 

美味しい蕎麦のはなし

長野県の麻績村に、自分で蕎麦を育て、挽いて、打ったものを売ってくれる方がいる。

仕事で初めてそのお宅を訪ねたとき、打ち合わせ終わりに「食べてみて」といただいたのが出会い。全てひとりでやっているというお父さんが、「いいかい、とにかく"茹で"が肝心だ。欲張っちゃいけない、必ず一人前ずつ茹でること。家庭に業務用鍋なんてないからね。それから、差水は絶対しちゃいけない。ゆで時間は40秒。うまいかどうかは茹で次第だよ。」と念をおされながら、打ち立ての生蕎麦を渡された。

家に帰ると、まずネギを切り、蕎麦ざると蕎麦猪口を用意。箸置きに箸を置く。準備は調った。さて。始めるか。

頑固親父風のお父さんとは結びつかない(失礼)、やわらかく愛らしい 蕎麦の絵が描かれた包装紙を外し、中に挟まれた説明書を読むと、お父さんに念をおされたのと同じことが書いてある。透明のふたを着せられトレーに収まった蕎麦は、なんとも美しく、上品なたたずまいで、思わず、「うわー」と声が出る。

家にある一番大きいお鍋に水を張って火をつける。沸騰を待つ間、綺麗に切り揃った 蕎麦に触れてみた。フワッフワ。粒子の細かい粉をそのまま触っているかのように、フワッフワ。本当にフワッフワ。

いただいたお蕎麦は2.5人前。いつもなら、一度に鍋に入れてしまうところ、ここはしっかりお父さんの言いつけを守って3回に分ける。1/3を手に取り、さらさらと蕎麦を一本一本手から滑らせるように沸騰している鍋へ。1、2…とカウントし、40数えたところですぐに引き上げさっと水で洗い、氷水で締める。「うわー」また声が出る。美しい。蕎麦が美しいのだ。松本みすず細工の蕎麦ざるに、美しい蕎麦がよく映える。

「いただきます」

もう、言うまでもない。美味しい。美味しすぎる。そば処 信州ゆえ、あちこちでおいしいお蕎麦を食べるけれど、「超えた」と思った。知らない世界が開けた気がした。

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後日、美味しかった!と報告すると、「"茹で"が良かったんだよ」とお父さん。お蕎麦は注文すると配送していただける。調子に乗って、即注文。届いたお蕎麦を再び茹でた。すると今度はブツ切りの仕上がり。味は変わらないとはいえ、ツルツルっという触感は楽しめない。確かに 前と違って蕎麦をばらけさせずに鍋に入れ、慌てて菜箸でつついた気がする。しかも 3回でなく2回に分けて茹でた。慢心だ。なんて勿体ないことをしたんだろう。

その後、何度か注文していただいているが、茹でるたび 忠告を肝に命じ、初心忘るべからず!の精神で茹でに望んでいる。最初の慎重さを持って茹でれば、必ず最高のお蕎麦が食卓に並ぶ。惰性じゃダメなのだ。

合理性やスピードを優先する風潮に身を置いていると、大事なものを見落としてしまう。最高に美味しい瞬間も逃してしまう。丹精込めてつくってくれた人の思いを裏切ることにもなる。
忙しく時間が流れていても、一旦“諸々”を断ち切り、その瞬間に丁寧に向き合うと、それだけで世界は変わる。「最高に美味しい!」にもありつける。茶道でいう「一期一会」って、こんな日常にも通じているんだなぁと改めて思う。


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追記。本当は誰にもおしえたくないけれど、最後まで読んでくださった方にだけ、特別に。


「そば打ち 宮元」
長野県東筑摩郡麻績村麻宮本4369

持ち帰り専門・事前に予約注文して取りに行くスタイル。(おうちの隣のそば打ち小屋で打っているので、その場で召し上がることはできません。)一人前500円。
ただし、ゆうパックで発送してもらえます(送料別途)。秋〜春先がおすすめシーズン。
あえて電話番号は載せませんので、興味のある方は調べてみてくださいね。(ウェブですぐわかります)「本当においしい」を共有・共感いただけたら私も幸せです。

最後までお読みいただきありがとうございました!

 

 

 

おもてなし その裏側を知る

「お茶事」は、誰もがよく知る"抹茶とお菓子"だけでなく、食事を伴うおもてなし。

本来、茶道はこの一連のおもてなしを通じて客人と亭主が心通うひと時を楽しむのもので、もてなす側・もてなされる側も、五感をフルにつかって全神経をこのひと時に傾ける。

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先生のお宅で催されるお茶事では、客人として楽しませていただいていたのが、いつからか亭主側を担当させていただくようになった。すると、見える景色は一変。何もかも、本当に何もかもが違って見え、はじめて目の前が開けるような感覚になった。


亭主は、客人を迎えるためにありとあらゆる準備を行う。掃除や庭仕事はもちろん、お茶や料理、しつらいなど、客人の目にするもの・触れるもの・聞こえるもの・嗅ぐもの・味わうもの一つひとつに意識を配って準備する。

路地を掃き清て打ち水をし、つゆに照らされた草花と踏み石の清々しい世界を作り出す。茶室のお床に禅語の軸をかけ、客人を迎える亭主の想いをそこに載せる。活けた花の葉につゆを落とし、たった今 朝露の残る草花を摘んだように表現する。茶碗や茶入れなど、つかう道具は季節や機会を推し量って吟選し、料理やお菓子も季節や産地、つくり手、意味合いに深く配慮したものを供する。白飯は、「たった今炊けたばかり、このあとお持ちしますからね」と蒸らす前のやわらかい白飯と、蒸らして食べ頃になった白飯とを二段階でお出しするのだから驚く。書き出したらキリがないけれど、その「瞬間」に目をやりながら、意味や背景に気持ちを載せた、細やかな、実に細やかな 心配りがそこにはある。

 
今まで 見ているようで見ていなかった、幾重にも重なった亭主の心尽し。目にするもの・触れるもの・聞こえるもの・嗅ぐもの・味わうもの。客人の「五感」と「知」が結びつき、心動く一瞬のために心を配る。それはもう、茶道の決まりごとを超越した「気づき」の世界。

ただし、亭主の心尽しを味わえるかどうかは客人次第。ただその場に身を置いているだけでは その向こう側にある想いや心遣いに気づくことができない。それを楽しむには、五感を研ぎ澄ませること。そして知ること。分からなければ、聞くこと。

五感と知を揺さぶられた客人の感動は、何百倍にも膨れ上がるはず。今このとき、亭主と客人との間にある共通世界を感じると、茶道でいう「一期一会」の本当の意味するところを味わえるのだと思う。  

おもてなしをする側の「亭主」。客人とは反対側の世界から「おもてなし」をみると、気づけるひとでありたいと心の底から強く思う。学ばないと。研ぎ済まさないと。道のりは長い。

空間をガラリと変える ファブリックパネル

勤めていた設計事務所では、性能の高さやデザイン性などから北欧スウェーデンの住宅を研究していた。建築はもちろん、インテリアや家具、文化、ライフスタイルなど北欧の情報に触れる機会が多く、私自身、気がつけば 北欧テイストが体になじみ、和と北欧が融合する いい頃合いを見つけながら 普段の暮らしに活かすようになっていた。ファブリックパネルを作るようになったのも、そんな縁からだ。

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ファブリックパネルとは

ファブリックパネルは、色彩やデザインの映える布地(テキスタイル)を枠材に覆いかぶせ 立体的なパネルに仕上げたもの。色味のない単調な部屋でも、壁にこのパネルを配するだけで ガラリと雰囲気を変えることができるスグレモノだ。
パネルの大きさは 多種多様。20センチ角前後のスモールサイズ、40センチ角前後のミドルサイズ、60センチ角あるいは1m超の横長など、本当に色々ある。洗面脱衣室やトイレなどの小さな空間にはスモールサイズがちょうどよく合うだろうし、壁面が広く 十分な引きがあれば、ミドルサイズやラージサイズも映える。2枚並べてダブルで配するのもアリだ。大事なのは、壁や空間の「余白」に合わせてサイズ感をみること。

 

暮らしの環境

冬が長く厳しい北欧の国々では、家のなかで過ごす時間が長い。となると 必然的に住環境に意識が向く。それはもちろん 家そのものに向けたものでもあるのだけれど、室内の装飾 つまり インテリアにも向けられる。いかに心地よく快適な環境を整えるかに気を配るのだ。だから、あかりや椅子、テーブルをとても大事に考えるし、壁にかかる絵、置物ひとつひとつを丁寧に吟味し 何をどこにどう据えると心地よいかを考える。 親や祖父母から受け継いだもの、年月を経たものは特に大事にされ、注がれた時間と愛着に価値を見出すのも ひとつの文化だ。

一方、高度経済成長の恩恵を受けてきた私たち日本人の家は、身の回りのものが著しく量産品に偏っていて ひとつひとつの個性に目を向ける感覚を失いつつある。ついつい買ってしまい、 モノがあふれている家だって多い。北欧の住環境とは なかなかのギャップにあるけれど、でも実は 日本だって元々モノにあふれる住環境だったわけじゃない。遠く遡れば、私たちの先祖はモノを大事に使って 次の代に渡したし、大切に使い続けてきた。茶室を見れば、その時々にあった空間を演出するため 掛け軸や花、花入れ、香合などひとつひとつを丁寧に吟味し 取り合わせを考えて構成している。ひとつのアイテムに目を向け 空間を考えることは、私たちのルーツに根付いた感覚のはずだ。

 

しつらいとしてのファブリックパネル

錚々たるデザイナー・作家によるテキスタイルで作られたファブリックパネルは、さすがに目を引く。人それぞれ 心に響くデザインとの出会いもあるだろう。そうしたものを身近に持つことは エネルギーの源にもなるかもしれない。

ただ しつらいとして考えたとき、お気に入りの大事な大事な一点モノ が常にベストなわけでもない。しつらいは、環境づくり。ファブリックパネルは、なりたい気分になるためのアイテムのひとつだ。清々しい気分、まったりした気分、エネルギーに満ちた気分。求める環境は 季節によっても変わるはず。年がら年中同じでは、そのときにあった環境をつくることはできない。いつの間にやらすっかり見慣れてしまって 当初感じた 温かみなり 清々しさなり、そのもの自体が持っている個性が届かなくなってしまうのでは もったいない。時々で 入れ替えたり外してみたり、その空間の印象を変える工夫は必要だ。

あまり高額なものだと 入れ替えるのはむずかしい。であれば、「色味」で捉えたらどうだろう。いつもの部屋に一石投じる"挿し色"としてのファブリックパネル。何色が加わると活きるか、パッと華やぐか。そんなことを考えながら ファブリックパネルを選ぶと ぐっと身近なものになるんじゃないだろうか。

 

【風土プラス 関連アイテムインフォ】

https://fudoplus.thebase.in

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ファブリックパネル 38cm×38cm 
Kauniste_sunnutai D  ¥6,000
フィンランド語で、“日曜日”という名のテキスタイル。青やベージュ色のお花の中に愛らしい小鳥がいるカット。空間が一気に爽やかになるアイテムです。

 

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ファブリックパネル 38cm×38cm

Granada B  ¥5,800

鮮やかなオレンジ色が冴える、花と実りのテキスタイル。白地ベースながらオレンジ系の挿し色として効果的。空間に温もりを与えてくれます。

 

 

 

サンタの煙突

12月25日。

夜中じゅう駆け回り 子どもたちにプレゼントを届けたサンタクロース、今はほっと一息ついているはず。お疲れさま、サンタさん。

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サンタさんとの出会い

初めてサンタクロースを知ったのは、4歳の頃。幼稚園で 絵本を読んでもらったときだった。初めて聞く話にピンとこず、絵本の中のお話として聞いていて 他の子のようにワクワクすることもなかったのだが、その年、ただのお話ではなかったことを知ることになる。

クリスマスの朝、リビングの壁に 小さな紙袋がかかっているのを見つけた。昨日まではなかったはずのリボンのついた紙袋。なんだろう?と釘付けになって見つめていると、「あなたのところにサンタさんが来たのかも」と母。サンタさん?うちに?半信半疑のまま 袋を開けて 覗いてみた。
中にはかわいいハンカチが入っていた。確かに私宛てのよう。でもサンタさんが来たとは信じがたい。だって、絵本で見た プレゼントをもらう子たちはみんな髪が黄色いし、サンタさんだって 鼻がとんがっていてこの辺で見る顔じゃない。サンタさんがいるのはどこか遠い国で、プレゼントは外国の子のところにしか来ない。黄色いアタマじゃない自分のところにもくるなんて。

その紙袋には 手紙も入っていた。
『泣かないように がまんしようね。でも、どうしても涙がでちゃうときには このハンカチでふいてね。』
びっくり。なんで知っているんだろう。その頃 大の泣き虫だった私は 毎日のように「泣いちゃダメよ」と先生に言われていた。贈り主は 私が泣いてばかりいることを知っている。ふしぎでふしぎで仕方ない。サンタさんはそんなことまで知っているのか。

ソリに乗れば空も飛べるし、一晩で 世界中の子どもたちにプレゼントを贈り届けられる。先生と友達しか知らないはずの 幼稚園での出来事も知っている。サンタさんは魔法を使えるのかもしれない。私の中でそんなイメージが出来上がった。

 

煙突はどこ

それからは、クリスマスが楽しみで仕方なかった。ただ、うちに来るサンタさんは必ずしも欲しいものをくれるわけでないこともわかってきた。どちらかというと、教育的要素の強いものをくれるらしい。絵本とか、地球儀とか。だから、その意図を汲んで、サンタさんに欲しいものを伝える手紙には 優等生っぽいものを書くようにした。「ソロバンが欲しい」と書いた年もある。もちろん本当に欲しかったわけではない。どこかで聞いてきた、頭のいい子が出来るというソロバンとやらを欲しいと願えば、サンタさんにそっぽを向かれないと思ったのだ。サンタさんはいい子にしかプレゼントをくれない。勉学に励む まじめでいい子だ と強く訴えなければ、と思ったのだ。

小学校に入ると、サンタクロースの話題は2つの派閥に分かれ始める。「そんなのいない」派と「間違いなくいる」派。私は後者に属していたので、12月になるとサンタクロースに見捨てられないよう せっせといい子アピールをして過ごした。
そんな頃、友達から「サンタクロースって、煙突から入ってくるんだよ。煙突がないおうちには入れないんだって。」と告げられる。慌てて帰って家を一回り見てみるが、サンタさんが入ってこれそうな煙突がない。どうしよう!そう思っているところに、心許ない細いエントツを見つけた。これだ!トイレの外に伸びる細くて長いエントツ。
「大丈夫かな」と細いエントツを指差す私に 「うーん、あれは臭突だからねぇ、どうかなぁ。」と母。「シュウトツ?でも煙突の仲間なんでしょ??」こっちも必死だ。とにかく、サンタクロースがウチに来れることを肯定したい。サンタさんは昔私が泣いているのを知っていたほどの魔法使い。こんなに細くたって 体を小さくするなり にょろにょろ変形するなりして 家に入ってこられるはず。もう、こじつけだろうとなんだろうと、「サンタクロースが入れる煙突がウチにもある」に落着しないと困るのだ。

その年も、サンタさんはプレゼントを持ってやってきた。何をもらったかは忘れてしまったけれど、多分きっとあの臭突を通って家に入ってきてくれた。
この季節になると いつも決まって思い出す サンタの煙突問題。思い出すたび、煙突ある・ないに そこまで躍起になる前に なぜ サンタさんは 前の年もプレゼントを持ってきてくれたことに意識が向かなかったんだろう と不思議でならない。時々思い出しては、そういうところ、昔からだな、と思う。

 

 

まめまめしくハタラク。父の畑と落花生。

今年も 父の自家製落花生の美味しい季節がやってきた。実際、父のつくる落花生は家庭菜園の域をはるかに超える。ぷっくりしていて 硬すぎず、乾きすぎず。よく見る国産品より大ぶりで、中国産よりジューシーだ。カリッと噛んだ時の食感と、顔のまわりに広がる香ばしさがたまらない。

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ミッフィーノート

父は、昔から自分の好きなことは とことん探求する性質。好きなことはやるけど 好きじゃないことはやらない主義、ともいう。呆れるほどメリハリがあり、農家生まれ農家育ちながら 畑しごとは ほぼノータッチ。仕事の延長線にあるものごとと ゴルフにしか興味がなかったのだが、ひょんなことから近所の畑を借りることになり 新たな探求の日々が始まった。
ある日、父が「要らないノートはあるか」と聞いてきた。たまたま手元にあったのは黄色いハードカバーのリングノート。シンプルだが すべてのページにミッフィーがいる。「それでいいや」と受け取ると、ペラペラページをめくりながら部屋に戻っていった。

半年以上が経った頃、作業台に置かれたミッフィーノートを見かけた。「あ。」と思って開いてみると、中には太い鉛筆線で 四角い枠、ところどころ囲みがあったり薄く塗りつぶされたりして、引き出し線とともに「ホウレンソウ」「春菊」などと描かれている。畑の配置図だ。他にも 間引きがどうの、芽がどうの、と メモがあり、とにかく緻密だ。こういう用途だったのか という驚き以上に父のマメさに驚いた。
よく言えばおおらか、悪く言えばガサツ というのが家族がみる父のイメージだから、仕事だとか趣味だとか、家族の知らない世界ではこんな一面があるのか、と新鮮だった。

ページの片隅にいるミッフィーと無骨な文字のコラボが妙で笑ってしまったが、そういうことなら もっと違うノートをあげればよかったかな、とも思った。

 

とことん

父の畑しごとは次第に熱を帯びていった。買い集めた本には付箋が貼られ、 空の靴箱には種の袋が整然と並び、雨樋の先には巨大な桶が据えられた。浴室の窓の外には残り湯を汲み出すポンプと特殊なホースが設置され、休みの日には 早朝からガガガガガ…と歩道を豆トラが進む音する。できる野菜は 驚くほどいい出来で、売りもの同等かそれ以上。ここが 何十軒と家が立ち並ぶ団地ということを忘れてしまう。
父は犬の散歩ついでに顔を合わせたご近所さんに採れた野菜をおすそ分けをするものだから、私が犬の散歩をしていると 知らない人から「キャベツありがとう」「大根 立派だったねぇ」と声をかけられる。同じ犬を連れ 手ぶらでいるのが なんだか申し訳なくなる。「お父さん もう里芋掘ってる?」と手入れや収穫のタイミングを問われることもある。知らないうちに "ご近所さん"は増え、団地の"菜園仲間"には 頼れる情報源になっている。

そんな父が 特に注力しているのが、マメ類。枝豆と落花生。他の野菜とは明らかに熱が違う。全く料理のできない父だが、豆だけは 食卓に上がる最後のところまで自分でやる。いちばんの楽しみ、仕事終わりのイッパイを美味しくするため 納得いく加減で仕上げたいのだ。

 

落花生

落花生は食べられるまでに手間がかかる。収穫してすぐ食べられるわけではない。
サヤをぶら下げた根を掘り出し 枝ごと干す。乾いたら 一つひとつサヤを取る。洗う。また干して乾かす。最後にロースト。国産落花生が高いのも頷ける。

一度 サヤを取る作業を手伝ったことがあったが、4時間没頭しても 収穫カゴ1.5個分にしかならなかった。生育中も 土の中でネズミやモグラが狙っているし、少しでも土からサヤが見えようものならカラスに掘り起こされ、干している間も狙われる。洗って庭先で干している間は愛犬が狙う。(これは意味が違うけど。)ローストだって、設備の乏しい家庭には難儀だ。たくさん作れば作るほど、この先の工程の大変さに心が折れそうになる。それでも父は、夢中になって 黙々と作業を進める。

最後の工程、ローストは 父もだいぶ苦戦した。何せ、基本的に料理はできない。
確か、当初はフライパンで炒っていた。オーブン皿に並べて焼いていたこともあるし、銀杏のように 紙袋に入れ レンジでチンしていた時期もある。挙句の果てには お菓子屋さんに持ち込み ローストを依頼した時期もあった。お相伴に預かる者からすれば、どの方法でも十分美味しいのだけれど、会心の豆を作った自負のある父には納得いくローストで食べたい。唯一自身で使えるオーブンレンジのあらゆる機能を端から試し、容器を変え、時間を変え、手順を変え、あの手この手で夜な夜な試作を繰り返す。深夜に 煙がもくもくするのは日常茶飯事で、香ばしい落花生の匂いが家じゅう充満するのは 秋冬の日常光景だ。

何年、何百日、何百回試したかしれないが、昨年父はとうとう納得のローストにたどり着いた。「うめえだろ」と父。ふだん素直でない私もさすがに「これは美味しいね」と即答してしまう。仕上げのロースト加減にこだわる理由がよくわかる。

父流ローストの基本のやり方は習ったが、その時々に微調整が必要で 父でないとうまくできない。年月をかけ執念で編み出した父流ロースト、よっぽど思い入れがないと そう易々と成功はしないのだ。
それにしても、父のマメさと執念には感服する。私にも少しはその血が流れているのだろうか。