むかしから、毎朝必ずコーヒーを淹れる。漂う香りがなんともいえない。ちょっとでも時間があれば豆からガリガリ。挽き立ては、ミル済コーヒーの数倍香りが良くて幸せ度が違う。ところが最近、そんな香りを楽しむ朝のルーティーンに衝撃が走った。
『コーヒーは100度のお湯で淹れる』
少し濃いめで苦みの強い ”大人のコーヒー”を淹れる達人から、「とにかく沸かしたてのお湯じゃなきゃ。それを、ゆっくりじっくり落とすのよ」と習った。私はミルクなしではいただけないが、達人の淹れるコーヒーはツウの方から絶賛されている。
達人から繰り返し美味しいコーヒーの淹れ方を習い、しっかり沸いた熱々のお湯で、ゆっくりじっくりモコっとする泡をつくりながら淹れることができるようになった。それでも自分ではミルクなしでは飲めない。結局ツウにはなれないなぁと思いながら、香りだけは楽しんでいた。
『コーヒーは90度のお湯で淹れる』
少し前 どこからともなく「お湯は90度」という情報を耳にした。どういうこと?「絶対沸かしたて」と習ったのに。半信半疑ながら、試しに沸騰してから少し置いたお湯で同じようにゆっくり・じっくり落としてみた。
衝撃。まるで味が違う。まろやかで、舌に残る苦味(雑味かな?)がない。同じ豆とは思えない。ミルクなしでも苦さが気になるなんてことはない。
なんだ、そうだったのか。コーヒーは大好きだけど、決してツウではない私。ツウでないと自覚するゆえ、私は濃いめで苦みの強い”大人のコーヒー”の美味しさがわからずミルクを入れてしまうのだ、とばかり思っていた。でもそうじゃないんだ。淹れ方の違いで好みが分かれただけなんだ。
評判でなく、自分は自分の舌で答えを出す
ツウでない、よく知らない。そんな風に自分を低く評価しすぎると、自分の舌が素直に感じた「ん?」という感覚を打ち消してしまう。自分が美味しいと思うものは、自分の舌で決めていいのだ。何を遠慮していたんだろう。
100度が正しいか 90度が正しいか、そういう話じゃない。熱々のお湯で淹れるほろ苦コーヒーもあるかもしれないが、90度のお湯で淹れるなめらかコーヒーもある。自分は明らかに後者が好きだ。初めからそう思えればよかった。無知だから…という謙虚さ(?)も、度を超えるとさらなる無知を生む。
こういうことって、なんだか色々なことにつながるな、と思った。
とりあえず、最近うちのコーヒーはミルクなしでもガツンと来ない、でも香り高くてまろやかな美味しいコーヒーだ。